宜保愛子~火箸とカルマ 焼け火箸の例え 社会的キボのカルマ

 
 
 幼少(4歳)時に、目に火箸が当たり失明。この現象は「焼け火箸のたとえ」をあらわす具体例だから、以下解説する。
 
 具体とは、抽象と対をなし、象徴の体現という意味。
 象徴とは、それ自体にあわらされる意味という意味。
 あたかも道路標識が説明がなくともそれ自体で意味をもつようなものだ。そして愛子とかかるアイコンも同じ意味をもつ。
 
 普通なら、火箸のような特殊なアイテムが、目にピンポイントに当たらない。ピンポン=当たり。その通り(正解)。
 
 
 目次

 ・焼け火箸のたとえ
 ・社会的規模のカルマ
 
 
 

焼け火箸のたとえ


 
 ブッタとその弟子アーナンダとの問答で、以下のような伝え話がある。
 アーナンダ曰く、知って犯した罪と、知らずに犯した罪、どちらが重いか。
 ブッタ曰く、知らずに犯した罪の方が重い。焼け火箸をそれと知って握るのと、知らずに握るのでは、後者の火傷が重くなるようなものだ。
 
 それでは、この問答の当否を検討しよう。因みに、理由などいらないというのは、法の主張として成り立たないことを意味する(理由がない)。
 一見して、後者の答えは素朴な法の常識に反している。故意で犯した罪が重いに決まってる。それがごく普通の法律で、法理論(責任主義)。
 しかるに、これと真逆を導く理屈の意味は何か。論理が通らないなら、バカでなければ何かを意図している。非合理で非常識で無責任なことを。
 一見して不合理な結論が、真理というのはおかしい、アーナンダは普通に考えてそう思った。だからあえて質問しているが、丸め込まれたな。
 
 火箸を握って大火傷するのはその通り。しかし普通の文脈では知りながら火箸を握ることなどない。比較する前提に欠けている。つまり詭弁。
 ではなぜこのような無理ある話をしたか。それは無理にでもそういわざるをえない事情があった、といわざるをえない。説明できない理由で。
 つまり自ら知って犯した大罪(ホラ吹・大袈裟な嘘)、それを倒錯させ矮小化している。そのしるしが、頭のクルクル、ラホツというホラ貝。
 法のもてあそび。よくいえば極度の混迷。永遠普遍の公平性(air of fairness)に、無知・無理解のあまり、場当たり的虚言という罪を重ねた。
 
 握るとは賄賂。法的な俗語(税法)。為政者と金でつるみ世の為と平然とうそぶき説法し、法潜脱の便宜(中抜き)を自分らだけ図る(脱法)。
 これが「普通の文脈」じゃない背後の文脈。犯罪者の理屈。だから、中が空で、態度がやけにでかく(唯我独尊)、金まみれのだらしない体。
 法を説き明かした? しょうもない。邪法だろう。だからその言葉は、蛇の否定・正当化から始まる(スッタニパータ)。邪の道は蛇、邪道。
 法文の一番先頭は、一番大事な、全文に通ずる象徴という、法理のイロハも分からない。まあその程度の頭だ。常にあべこべで倒錯している。
 
 火箸のたとえのエッセンスは、①詭弁と知りつつ嘘つく罪は、②法に無知なほど重ねてふくれあがる(火傷。法の無知は故意を阻却しない)。
 これを彼女についてみると、にぎってはいないが、目に当たり、つまり痛い目にあっている。そしてその(霊的反動の)意味を全く知らない。
 汚い大人の文脈は知らないが、知らないからこそ(教)唆され、火傷した。嘘で突かれた方。知らずに加担したアーナンダのようなものだ。
 

具体例・具体的検討

 
 上記の解釈を裏づけるためにも、具体的な事実をみてみよう。
 
 ・彼女は霊感をとても不幸な能力ではないかと思っている。近所の人が「どうかみて欲しい」といってくることが苦痛でしょうがなかった。
 ・みると疲れるし、ご褒美にアメやアンパンやキャラメルをもらったが、そんなのはいらないから、そんなのはしたくないなって。
 ・でもね、とっても幸せなところもあるんですよ、といい、近所の人の霊が自分の葬式を伝えてきて、お葬式まんじゅうをせしめた話をする。
 ・「こしあんが沢山入ったお葬式まんじゅう。そのお葬式まんじゅうを頂きたくて、私はそのお葬式に駆けて行くんです」。
 ・「それでね、何回も行列しては、2つも3つもせしめちゃってた」と。
 
 おまんじゅうとは、汚い大人の背後の文脈では政治の毒。潜り込まされた賄賂。もぐりとは法潜脱。近所の大人の背後霊によるおまんじゅう。
 この隠語を知らない子に、汚い罪(汚職)の意図はないが、事実の認識はある。中に沢山入った甘い話、何回ももぐり、味をシメてせシメた。
 一つの能力を、不幸を招くといいつつ、直後に幸せという。この構図はこうだ。他人の不幸(死)をしって、とっても幸せなこともある、と。
 それがここでの例え話をした人々の生業。ここで彼女に有利にいうなら、この考えは彼女本来のものではない。例のように吹き込まれたもの。
 だからまず、とても不幸だという話をし、直後それに反論するように、でも幸せなところもある、と完全に相反したエピソードを言っている。
 
 直線的時間軸では、まんじゅうの話が先だから、苦痛をもたらした原因はここにあるとみるのが素直。

痛い目にあう象徴的意味

 
 霊的な能力は、人の幸せのためにある。「人」とは、自分と相手、そして同時に世のため。自分だけ排他的に満足するためにあるのではない。
 そして「幸せ」といっても、物の幸せ、金や政治やまんじゅうに必死になる類の幸せではない。心(霊)の豊かさのことだ。物は必ず消える。
 心の力・強さ(精神力ともいう)は、心をより豊かにするためにあるのであり、それで物を集めようとするなら(倒錯)、心が貧しい。
 
 目が潰れるとは、ご飯・コメこぼし粗末にするとかけ、小さい命・忠告を無視するとバチがあたるととく。その心は、おめこぼしはしない。
 しかしそれでは、無邪気にまんじゅうを食べた可愛そうな子には、あまりに重いだろうから、肉眼とひきかえに上位の霊眼を授けている。
 今は無理でも、いつかはその眼をひらき、自らその背後の霊的関係・霊的原因をみれるように(慈悲かつ予防。背後霊という意味ではない)。
 
 これは日頃の行い・素行をトータルに見て見込みあるからそうなる。見込みなければただ潰れる。目には目を(相応の報い=応報)。
 
 

社会的キボのカルマ


 
 彼女が表舞台を退いた原因は、活発に活動し本も多く出版していた時期、ちょうどその時に起きた、常軌を逸した宗教的クーデターといわれる。
 その動乱は、密教の教えのようなものを根拠に、救いと称し命を害い奪った。詭弁を重ねて責任から逃れようとした教祖。その目は潰れていた。
 そして彼女は霊的な意味での先生(教師≒グル≒共謀)と言われる。その著作(『生まれ変わりの秘密』175-176p)には、以下の記述がある。
 
 「人間に害を及ぼす害虫、たとえばゴキブリ、しらみ、蚊、ハエなどは、それなりの悪い行為の積み重ねをした動物の最後の姿」であり、
 「それらを見つけたとき、その命を断ってあげるということは、逆にその害虫の魂をよりよく導いてあげることになります」
 人と虫との形は違うが、つまり、小さい(虫の)命の意味を無視している。これが俗に言う因縁。のろいの遠因(cause of curse)。カルマ。
 
 しかしこれを彼女に有利にみれば、これも吹き込まれたもの。通常時の理解と一貫しないからだ。そして人に何かを吹き込んだのは蛇という。
 蛇からすれば、目を開かせた知恵となぜか決め付けているが、それこそが邪道の極み。潜り込み、倒錯を吹き込み、巧妙に利己的に利用する。
 蛇は巳という。しかし、命(の意味・実)を左右できるのは、造ったものだけだ。人は虫ほどの命も造れない。人も0(霊)から造れない。
 
 それでも、動乱と対照的に身を引いた程度のことで済んでいるのは、今生で懸命に償いをしたからだ、とはみれないか。
 世界を回り必死に供養し、自らの体を霊的実験に捧げ、霊的な世界・ものの見方があるということを、右も左もわからない人々に啓蒙する。
 啓蒙とは、無知から目をひらかせるという意味だ。失った光を取り戻すには他人に光を与えるように。そういうはからい。そう思わないか。

 

 
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